気ままに本要約ブログ

本を読んでアウトプットすることではじめてインプットできる!自分自身の為と、ブログを読まれた方へ少しでも参考になれば良いかなと思い、気ままに書評を書いていきます。

「エンタメ」の夜明け ディズニーランドが日本に来た日

東京ディズニーランドはどのような経緯で日本に入ってきたのだろうか。テーマパークの絶対王者は、誰が関わって日本に持ち込まれたのだろう。

 

浦安沖の埋立地

ディズニーランドを運営するオリエンタルランドは、三井不動産京成電鉄などが浦安沖の埋め立てなどのために設立された会社だ。埋立地の一部は遊園地用地として利用することと決まっていたが、その時点では、ディズニーランドを誘致する話はなかった。しかしその後、電通から送り込まれた「堀貞一郎」が、視察旅行でフロリダのディズニーランドに衝撃を受け、これしかないと思い会社に提案した。そこからディズニーを招致活動を本格的に始めることになった。

 

史上最大のプレゼン

当時、ディズニーランドは、アメリカ国内以外にも進出しようとしていて、18カ国のオファーを受けていた。その中に、日本の「三菱地所」と「三井不動産」があった。三菱は、富士山麓(御殿場)につくるプランで、三井(オリエンタルランド)は、浦安の埋立地プランだ。

そして、ディズニー経営陣が来日し、2社のプレゼンを受けるわけだが、結果からいうと三井(オリエンタルランド)の圧勝に終わる。堀貞一郎のプレゼンは完璧だった。まず、ど頭に、通訳がいるのに大きな声で「日本語」で説明を始めた。これがウケて、そこから和やかな雰囲気で進められた。そして、現地視察のため浦安に移動するリムジンバスの中でも、事前に幹部の好みをリサーチして、ドリンクや食事でおもてなす。現地でも市長のあいさつ、おびただしい数の子供たちがアメリカ国旗の小旗を振ってお出迎えするなど。

そして、東京都心からの近さをアピールするためにヘリコプターを用意し、東京駅や新宿などを回り浦安へ舞い戻ってきた。三菱の御殿場との違いを見せつけるかのように。こうして三井(オリエンタルランド)が圧勝した。

 

2年半もの停滞期間

だが、その後すんなりとは進まなかった。2年半もの間、何も進展していなかった。理由は、親会社の三井不動産の社長が「ディズニーは時代後れ」としてストップをかけていた。当時、石油ショックの影響もあり経営状況もよくなく、もう一つの親会社である京成電鉄はさらに状況は悪かった。オリエンタルランドの社長に就任した「高橋政知」は、三井不動産の社長と真っ向から対決し、意地でもディズニーを作ると諦めなかった。しかし、三井から出資を減らされピンチに立たされた高橋は、銀行を駆けずり回りなんとか窮地を脱する。この時助けてくれたのが日本興業銀行の副頭取だ。隠れたディズニーファンが東京ディズニーランドの実現の危機を救った。そして高橋は親会社を無視して強引に本契約を結んだ。

 

最後に

東京ディズニーランドは、2年間の建設期間を経て、1983年4月に華やかなオープニングセレモニーを行った。やがて年間2500万人を集め、2500億円以上を稼ぐ世界屈指の巨大テーマパークに成長していった。

1964年の東京オリンピックで、新幹線や高速道路、首都高やモノレール、各体育館などが造られ、社会インフラが一気に整った。1970年の大阪万博で、日本の文化に革命が起きた。アイデアやクリエイティブにもきちんとお金を払うようになる、ターニングポイントとなった。そして東京ディズニーランドの大躍進。

このように、今日の日本を築き上げていく過程においては、さまざまなターニングポイントがある。その歴史を知っておくことは為になる。