気ままに本要約ブログ

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現役引退 プロ野球選手「最後の1年」

プロ野球選手の引退は、小さい頃からやっていた生活の一部というか、ど真ん中の「野球」をやめることだ。半端ない喪失感に襲われるだろう。

引退は、彼らにとってすごく特別なことだし、それぞれのタイミングがある。

自分の意思で決められる人もいれば、クビになり続けられない人もいる。

40代半ばまでボロボロになりながら、使ってくれるまで続ける人。

現役バリバリのままやめる人。

どう選手生活を終えるか、それは「どう生きるか」という問いでもある。

 

全24選手の、最後の1年についてダイジェストでまとめてみる。

 

王貞治

王さんは現役バリバリのままユニフォームを脱いだ代表的な選手だ。最後の年にホームラン30本というのは有名な話。40歳のラストシーズンは全日程終了後に引退発表したため、引退試合はなかった。代打だけなら50歳まで続けられたが、当時のONは大横綱だから、番付を下げてまで現役は続けられない。

王さんの成績年表を見てみると、ほんとゲームの世界。13年連続本塁打王、1年だけ田淵に取られたがその後また2年連続本塁打王。40本塁打以上が13回。

公式戦で通算868本は世界記録。オープン戦、オールスター、日本シリーズなど含めると通算1032本だった。

 

落合博満

左の最強が王なら右の最強は落合だ。

落合博満は、王貞治とは対照的に、最後までボロボロになりながら引退していった。プロ入りが遅かったため、プロ20年目で45歳の年、日本ハムでひっそりとバットを置いた。己の主義で引退試合やセレモニーは無し。落合の代名詞は3冠王。歴代最多の3回だが、すべてロッテ時代に達成している。

圧巻は1985年86年の2年連続達成時の数字だ。

85年 率.367 本52 打点146

86年 率.360 本50 代打116

最強すぎる。

 

長嶋一茂

偉大すぎる父親を持つプリンスは、プロ野球の世界に飛び込んだが、結果を残せず短命で終わってしまう。最後は当時の巨人監督の長嶋茂雄から、実家で戦力外を告げられた。プロ9年目31歳だった。

その後テレビの世界で活躍していくわけだが、やはり長嶋一茂の息子。明石家さんまさんが救いの手を差し伸べ、からくりテレビでブレイクする。

 

古田敦也

古田の功績はプレーだけではなく選手会の会長としてもプロ野球界に爪痕を残した。

2004年の球界再編時に機構やオーナー側と戦い、12球団制を維持した。その他にも、セパ交流戦やドラフトやFA改革と、次々に言及していった。

プレーの方でも、キャッチーでありながら2年目に首位打者になったり3割30本を達成したり、野村克也以来のキャッチャーで2000安打もクリアしたり、打てるキャッチャーの代名詞となる。

そんな古田の晩年は、こちらも野村克也以来となる選手兼任監督で、最後の年は選手も監督も辞めるということになる。

18年目で42歳の年、引退試合で「5番捕手」で先発出場すると、盟友らが駆けつけ有終の美を終えた。

 

水野雄仁

池田高校時代に春夏連覇で一躍有名になった水野は、江川の後の巨人のエースと期待された。

ちなみに2つ下にPL高校の清原桑田がいて、甲子園では語り継がれる有名な対戦があった。

ゴールデンルーキーとして入ったプロ野球の世界だが、そう甘くはなく、10勝出来たのは1回だけ。

そして31歳の時に巨人で引退するのだが、その翌年からドミニカに行き、更に翌年メジャーのパドレスのキャンプに参加した。がしかし、やはりメジャーの壁は高く、戦力外通告を受け2度目の引退となる。

 

原辰徳

甲子園のアイドル、大学球界のスーパースターはONの後継者としてなり物入りでプロ野球へ入り、1年目から22本塁打と結果を残した。

順風満帆でスタートしたプロの世界だが、やはりONと比較されてしまい、なんか今ひとつ足りないんだよなあと言われ続けた現役生活だった。

ただ、デビューの年から12年連続で20本塁打以上を達成したり、しっかりと数字は残している。80年代のセリーグで通算本塁打と通算打点のトップは、山本浩二でも掛布雅之でもバースでもなく原辰徳である。

そんな原の37歳で迎える引退試合は、4番サードで出場し、通算382号のホームランを放ち、長嶋監督と涙の抱擁を交わした。瞬間視聴率は32.4%を記録した。

 

石毛宏典

原辰徳と同じ年にドラフト1位で西武に入団した石毛は1年目から打率.311と活躍した。打てるショートストップでもあるが、なんと言っても西武の黄金時代を支えるキャプテンとしての存在感が強い。

西武がパリーグ記録のV5を達成し、9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一に輝いた森祇晶監督が辞任する事になり、後任に石毛が西武の監督になると誰もが思っていたが、本人は現役にこだわり、FAで西武時代の恩師根本監督がいるダイエーに移籍する。

しかし移籍後は活躍出来ず、40歳でユニフォームを脱ぐことに。

 

中畑清

絶好調男」「お祭り男」でお馴染みの中畑清だが、プロ入り3年間でわずか3安打と、引退を考えたほど苦しんだ。しかし4年目に100試合に出場し打率.294と結果を残し、そこからレギュラーに定着する。サードを守っていたが、怪我のタイミングもあり、原辰徳に譲ることになる。

そしてプロ14年目、平成が始まった1989年に最後の1年を迎える。レギュラーシーズンは出場機会があまり無かったが、日本シリーズで最後の輝きを放つ。3勝3敗で迎えた最終戦にホームランを打ち日本一に輝き有終の美を飾る。

 

掛布雅之

習志野高校からドラフト6位で入団すると3年目で打率.325、27本塁打とブレイクする。175㎝と小柄ながら放たれる打球はすごい飛距離で79年には48本塁打でホームラン王になる。本塁打王は都合3度。

そんな掛布がピークを迎えるのが85年の阪神21年ぶりの優勝である。三冠王バースの後の4番を打ち、率.300、40本塁打、108打点を残し球団初の日本一にも貢献した。

しかし、翌86年から順調だった野球人生が一変してしまう。立て続けに怪我をしてしまい、不振が続きその2年後に引退する。プロ15年目の33歳だった。

ミスタータイガース阪神優勝までが華だった。

 

江川卓

長いプロ野球界においても、江川卓ほどバッシングを受けて入団した選手はいないだろう。

高校、大学時に無敵だった「昭和の怪物」は2度のドラフト1位指名を、入団拒否している。そしてアメリカ浪人中の78年にあの「空白の1日」事件が起きる。

交渉権を得た球団は、翌年のドラフト会議の前々日まで交渉権利があるが、ドラフト前日はフリーの状態となる。ここで巨人が電撃契約を結んだということだ。しかしセリーグ事務局と揉めに揉め、結果ドラフト会議で1位指名をした阪神とトレードする形に。巨人のエース小林繁阪神に、江川卓が巨人に。

そんな形で入団した江川は結果で証明するしかなく、相当なプレッシャーがあったと思うが、やはり実力は本物。謹慎期間と浪人ブランクがあった1年目は9勝に終わるが、2年目は16勝で最多勝、3年目は20勝をあげ投手タイトルを独占した。

そんな江川は徐々に肩の怪我に苦しみ、プロ9年目、13勝5敗、防御率3.51という好成績を残し引退する。

有名なエピソードとしては、カープの小早川に自信を持って投げた真ん中高めの直球を捉えられ、サヨナラホームランを浴びた試合後に涙を流し、引退を決意した。

 

田淵幸一

高々と放物線を描き滞空時間の長い打球を放つホームランアーチストと言えば田淵幸一である。

186㎝の大型捕手として阪神に入団すると1年目から22本塁打で新人王を獲得した。その後10年間阪神で主役を張っていたが、電撃的トレードで西武ライオンズへ放出される。西武でも43本塁打を放つなど活躍した。そして36歳の年にはすごいハイペースで本塁打を量産していて、王貞治の55本を超えるのではと期待されていたが、怪我で頓挫してしまう。ただ、その年は82試合で30本塁打と凄まじい成績を残した。

にも関わらず、翌年に引退することに。田淵もまた、4番打者のまま死ぬことを選んだ選手だ。

 

清原和博

高校時代、そしてルーキーイヤーからとんでもない記録を残していった清原和博は、ピークが早すぎたのかもしれない。ルーキーイヤーから31本、29本、31本、35本、37本と23歳で最年少1億円プレイヤーとなった。西武黄金時代の4番として一時代を築いた。

そしてプロ12年目に憧れ続けた巨人にFAで移籍する。移籍1年目こそ32本塁打と結果を残すも、その後は30本に達することはなかった。巨人でのプレッシャーは凄まじく、その輝きは徐々に薄れていく。大型補強や松井の成長で4番の座を譲り、肉体改造が裏目に出て毎年のように怪我に悩まされるシーズンが続き、堀内恒夫監督時には首脳陣とも修復不可能なまでに関係が悪化。

ついに巨人に居場所は無くなり、最後のキャリアは仰木監督からの熱心な誘いもありオリックスで骨を埋めることに。晩年は両膝がボロボロの満身創痍状態。引退試合にはイチローも駆けつけた京セラドームであの有名な試合後のセレモニーで幕を閉じる。

 

桑田真澄

清原和博の熱望していた巨人から単独指名を受け入団した桑田は、友を出し抜いた球界のヒールとなった。1年目こそ振るわなかったが、2年目には15勝6敗、そして2.17で最優秀防御率を獲得する。その後毎年二桁勝利をあげる巨人のエースとなった。ゴーイングマイウェイ的なその性格は、当時では珍しいウエイトトレーニングや栄養学、心理学、メンタルトレーニングなど、独学で勉強した。古い慣習に抗って独自の調整法を取り入れた。

そして斎藤、槙原と巨人の3本柱として一時代を築いていった。

靭帯断裂からトミージョン手術を経てカムバックしてから9年後、巨人のユニフォームを脱ぐことに。

そして海を渡りメジャーへ挑戦する。パイレーツで6月から8月までメジャーのマウンドへ上がりイチローや松井と一度ずつ対戦する。しかし翌年40歳になる桑田にはチャンスは無かった。

アメリカでひっそりと現役引退した。

 

村田兆治

マサカリ投法で有名な村田兆治は、このフォームに辿り着くまで4年がかかった。剛速球と伝家の宝刀フォークボールでロッテの一時代を築く。

レーニングはとにかくストイックで、いつでもどこでも指の間に何かを挟んで常に指を鍛えていた。

ちなみに、今では当たり前の肘のアイシング用品だが、村田がベンチで氷水を入れたバケツに肘を突っ込んでいる姿を見たスポーツメーカーの社員が商品化したとの逸話も。

そんな村田兆治も、余力を残して辞める主義だ。40歳の年、10勝8敗という成績を残してマウンドを去った。

 

駒田徳広

191㎝の大型選手は意外にもアベレージヒッターである。そしてデビュー戦で満塁弾を放った男は、その後も満塁ではめっぽう強く満塁男と言われるようになる。そんな駒田の気性は荒く、巨人らしくない選手だった。そして長嶋巨人となった際の中畑コーチとの不仲が顕在化し、出場機会も減っていく。チーム内で孤立していく満塁男は巨人を自ら去っていくことに。

FAで移籍した横浜ベイスターズではマシンガン打線の一員として活躍し、横浜38年ぶりの勇者にも貢献した。

そんな駒田は、プロ20年目に2000本安打を達成してその年ユニフォームを脱ぐ。

 

定岡正二

高校時代、鹿児島実業で甲子園のアイドルとして大ブレイクした。同期に西本がいるが、巨人にドラフト1位で指名され、一躍スターとなった。

キャンプから女性ファンがつめかけ、当時の野球では珍しい光景だった。

しかし3年目までまったく振るわず、6年目に頭角を現し始める。そして7年目、8年目の二桁勝利をピークに、プロ11年間でユニフォームを脱ぐことに。

その後はタレントとして活躍していく。

 

西本聖

定岡正二とは対照的に、高校3年時は甲子園にも行けず無名の選手だった。松山商業から巨人にドラフト外で指名され何とかプロ入りを果たす。

入団後は、とにかく反骨精神でガムシャに成り上がる。

3年目で8勝を上げ一軍に定着し、6年目から6年連続で二桁勝利を上げるなど、江川卓と二枚看板で活躍する。西本聖は2つ歳上の江川に闘争心むき出しでライバル視するが、江川の方は涼しい顔でマイペースを貫いた。

二桁勝利が途切れこれから落ち目の32歳右腕は、闘将星野仙一が高く評価し中日へ中尾とのトレードで移籍する。なんと翌年20勝をあげ最多勝に輝く。

しかし移籍3年目でヘルニアを患い手術。その後は輝けることなく、最後は自由契約となり、巨人にテスト生から合格するも、当時監督の堀内恒夫がまったく起用せず、1軍の登板がなく引退することに。

 

山本浩二

法政大学からドラフト1位で入団したミスター赤ヘルは、実は当初、強肩や俊足が売りの一若手選手だった。そして、30代からの打撃成績がすごい。5年連続40本塁打以上を打ち、本塁打王4回、打点王3回を獲得する。巨人ONの後のセリーグを代表するスラッガーとなる。

そんなミスター赤ヘルも、余力を残してやめていくタイプだった。40歳になるプロ18年目、打率.276、27本塁打、78打点という好成績を残して引退する。そして背番号8は、球団初の永久欠番となる。

 

渡辺久信

西武黄金時代のエースとしてチームを9度のリーグ優勝、6度の日本一に導いた功績者だ。

だが、20代後半になると思うように勝てなくなる。功労者への西武球団の扱いというのはあっさりしたもので、32歳の通算124勝の右腕に対し、戦力外通告をしたのだ。

そして再生工場で知られる野村ヤクルトからオファーを受け入団するも、それが日本球界最後の年になる。翌年から若松監督となるタイミングで、再び戦力外通告を受ける。

しかし、ここで転機を迎えることに。

郭泰源の誘いで台湾野球へ飛び込んだ。選手兼コーチという形でプレーすると、その年に投手タイトルを独占する活躍を見せ一躍有名選手となる。

台湾で3年間活躍し、正真正銘引退する。

 

ランディ・バース

日本球界で一番巨力なインパクトを残した外国人選手と言えば、バースだろう。

阪神で6年間プレーするが、シーズン54本塁打日本記録のシーズン打率.389、そして2年連続で3冠王を達成した。

掛布とともにクリーンアップを打ち、阪神の21年ぶりのリーグ優勝と球団初の日本一を達成させた最大功労者だ。

がしかし、昭和最後のシーズンに突然甲子園から去ることに。

シーズン序盤の5月に、息子が頭部に水がたまる水頭症になりサンフランシスコの病院に緊急入院となり、バース夫妻も付き添いで帰国することになった。当初球団も容認していたが、突然一本の電話がかかってきて、「君は解雇だ」と告げられた。

NPB6年間の通算打率.337、202本塁打、486打点という凄まじいインパクトを残したまま「神様バース」はユニフォームを脱いだ。

 

ウォーレン・クロマティ

MLBで通算1063安打を残した30歳の現役バリバリの大リーガーは、1年目から35本塁打を放ち、3年目には打率.363、37本塁打、98打点とその実力を如何なく発揮する。

そして6年目には打率.378で首位打者を獲得。セリーグMVPにも選ばれてチームも日本一に輝いた。

しかしそんな翌年、クロマティは最後の1年となる。巨人を去った翌年にはMLBのロイヤルズに移籍するが、1年で現役引退した。

NPB7年間で通算打率.321、171本塁打、558打点という成績を残す。巨人史上最高の外国人選手である。

 

秋山幸二

当時メジャーに一番近いと言われた男は、強打と俊足をあわせ持っていた。アメリカ留学を経たプロ5年目には40本塁打を放ち、翌年41本、さらに翌年43本と、3年連続で40本塁打を記録する。

89年にはトリプルスリーを達成し、90年には35本塁打、51盗塁と、「30本、50盗塁」は未だ秋山だけの偉業だ。

センターの守備では10年連続でゴールデングラブ賞を獲得した。打って走って守ってが超一流で、来日した助っ人外国人も「メジャーどの球団でもレギュラーになれる」と太鼓判を押す。

そんな秋山も、西武黄金時代を支えていたが、93年にダイエーに電撃移籍をする。ダイエーでは王監督のチームを支えるリーダーとしての役割を担っていく。

晩年は腰痛に苦しみ成績は振るわず、40歳の年、最後の1年を迎えた。

通算400本塁打、300盗塁は張本勲に次ぐ史上2人目、9年連続30本塁打以上は王貞治に次ぐ歴代2位。オールスター18年連続ファン投票選出は日本記録である。

 

門田博光

案外知られていないが、通算567本塁打と、王貞治野村克也に次いで日本歴代3位である。

天理高校時代は本塁打ゼロだったが、社会人野球で開花し、170㎝と小柄な体でフルスイングが売りのホームランバッターとなる。

門田と言えば、40歳にして44本塁打、125打点の2冠王、打率も.311と、とんでもない記録を残した。中年の星と言われ、その後2年間も30本塁打をクリアする。

プロ生活23年間44歳で引退する。

 

長嶋茂雄

最後はミスタープロ野球の引退。

人はよく、記録の王貞治、記憶の長嶋茂雄と言うが、実は長嶋茂雄もすごいタイトルホルダーだった。6度の首位打者、10度の年間最多安打、5度の打点王、2度の本塁打王、数々の記録を残している。

長嶋茂雄の晩年には、川上監督から直々に後継者の打診をされるが、現役にこだわりたいミスターはなんとか頑張るが、プロ17年目の38歳の年、その時を迎える。

10月13日、中日の20年ぶりの優勝が決まり、巨人のV10が消滅した日、引退の会見が行われた。

そして翌日の最終戦であの有名な引退セレモニーが行われた。

長嶋茂雄の引退は、ひとりの選手のキャリアの終わりではなく、自分が熱狂した日々、己が生きたひとつの時代が終わるということを意味している。

 

 

というわけで、本で紹介されていた全24選手をエッセンシャルに解説してみた。

いまの名選手たちはメジャーに行く流れなので、引退へのストーリーはより深いものになっていくだろう。選手の引退の仕方は、選手の生き方そのものだ。バリバリの華やかな時ではなく、引退間際の選手をウォッチするのも味わい深いなと感じる。