池上彰と考える「死」とは何だろう
「死」について考えるということは、同時に「生きる」ということを考えることだ。
まずは科学的に「死ぬ」とはどういう状態のことか。
心臓の動きが止まり、全身に血液が行き渡らなくなると脳にも血液がいかなくなる。脳が機能停止になるとやがて死亡する。
心肺停止になった人を蘇生させるには、3〜4分以内に心臓マッサージをする必要がある。心臓に圧力を加えることで強制的に脳に血液を送り込む。
AEDは電気ショックを与えて心臓の動きを正常なリズムに戻るための医療機器。心停止の「心室細動」のときに「のみ」作動するように出来ている。
そもそも、人はなぜ老いて死んでいくのか。
人間の体は約37兆個の「細胞」から出来ていて、毎日4000億個の細胞が日々死を迎えている。
たとえば皮膚細胞は1ヶ月周期で生まれ変わり、古い細胞は「垢」となって剥がれ落ちる。
その、新しく生まれ変わる細胞を作り出す力がだんだん弱くなるのが「老化」である。
シワが増えたり髪が薄くなったり、体自体が小さくなったりする。
そして、細胞が定期的に死ぬように指示しているのがDNAで、そのことを「アポトーシス」という。
このアポトーシスに異常が起きると「がん細胞」を消去できない。逆にアポトーシスが進みすぎるとエイズやアルツハイマーになるという。
スティーブジョブズの「死生観」
2007年に世の中にiPhoneを登場させ、2011年に膵臓がんで死去している。短命の革命家である。
有名なスピーチの中に、「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」とある。
毎日、常に、自分の直感、自分のやりたいことに従って生きようという考え方である。
こんな考え方だけに、いろんなところで摩擦を生んでいたようだが、信念は曲げなかった。
ジョブズのようには生きられないけど、このような考え方を少しでも取り入れることは「自分の人生を生きる」ということに役立つ。
宗教ごとの「死生観」
キリスト教は、カトリックとプロテスタントで若干違う。カトリックは、「生前の許しを請う」ことに対し、プロテスタントは、「故人が生涯を全うしたことを神に感謝する」というニュアンス。
他にも、宗教者の呼び名が、カトリックは「神父」でプロテスタントでは「牧師」。
いずれにしても、キリスト教での死とは、「神のもとへ行くこと」であり、悲しむべきことではなく、祝福されるべきことである。
日本のように、「お悔やみの言葉」をかけるものではない。
イスラム教においての死とはもっと神格化していて、今生きている現世は「仮」の世界、「来世」こそが本当の「生」と考えられている。
皆、「天国へ行く」ために現世で厳しいルールを守っている。1日5回の礼拝、お酒は飲めない、豚は食せない、年に1度、1ヶ月間の断食など。
死は来世への通過点であり、人生の終わりではなく怖いものではない。大切なのは来世であり、「天国」へ行くのか「地獄」へ行くのかは、現世での行いによる、という考え方。
ちなみにイスラム教では火葬ではなく土葬の文化。火葬は火で焼かれる地獄の懲罰と連想される。
仏教においての死とは、「極楽浄土」を目指すということ。故人の生前の行い次第だが、法事やお墓参りで僧による「追善供養」をすることで、故人の善行を修め、故人の生きていた頃の悪行を軽くし、徳を増やして「極楽浄土」に生まれ変わってもらうことを願う。
仏教では「生きること」は「一切皆苦」であり、「この世の営みは全て思い通りにならない苦しみである」と捉える。つまり、人生はもともとうまくいかないものだ、良い事が起きたら感謝しよう、という考え方。
日本人においての死とは、日本独自の宗教「神道」によるもので、死後の世界を「黄泉」という。生き返ることを「よみがえる」というのは「黄泉から帰る」ということ。
この「黄泉」が汚らわしいと考えられている。なので葬式後には「清めの塩」を振るし、禊(みそぎ)をするため冷たい海に入ったり滝に打たれたりする。
映画「おくりびと」のワンシーンで、広末涼子が納棺師になった夫に「汚らわしい!」と言い放ったが、日本人にとっての「死」とはまさにそのようなことである。
「あいまいな喪失」
東日本大地震や新型コロナウイルスで家族を亡くした人たちは、死に目に合えず「あいまいな喪失」と向き合うことになる。
最後にしっかりとお別れが出来ずに亡くなる喪失感は、想像ができないし、とても辛いことだと察する。
当たり前の日常が、どれほど素晴らしく、ありがたいものであるか。
「安楽死」を考える。
ALS患者など、いっそ安楽死させて欲しいと考える人もいる。一方で、まだ生きたいと考える人もいる。安楽死が合法的に認められていたとしたら、本人の意思で選べるから良いのではないかと、一見は思われる。
が、同調圧力の強い日本においては、ALS患者に対し、声に出しては言わないが、「まだ生きてるのかよ」みたいな雰囲気が必ず出てくる。
「まだ生きたい」と思っている人へのプレッシャーになる。
安楽死の問題は、実はいろんな問題が潜んでいる深い深い問題なのである。
ということで、死について考えることは、同時に「生きる」ことを考えるということである。
人は皆死ぬ。そして自分の死ぬ時期は自分で選べない。これは紛れもない事実。
だからこそ、「いま」に感謝し、「いま」を全力で生きることが大事なのである。